「渦」と「青」のノート
「渦」のメモ
ドゥイノの稜岸でリルケは「“奔流”と“巖壁”とのあいだに一筋のわれらの耕作の地を見出すことができるなら」とうたったが、岬に立つということは、海洋的流動と大地的褶曲とのあいだの拮抗する力を知覚することであり、その力の渦を前にして<世界の生成−耕作の地>を見出すことである。それはまた大王崎の尽端に立った折口信夫が「遥かなる波路の果てに、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった」と言ったように、“あちら”と“こちら”が混じり合う「ムスビ(産霊)」の知覚の場でもあるだろう。渦とは相反する力の崩れつつ生起する結節点であり、あらゆる形を構成する前-形態の流動的奔出に他ならない。
「青」のメモ
大禍時という昼と夜の“はざま”において世界は「青」に包まれる。それは時間と空間の端境において相互に貫入し、移行してゆく中間的な「気配」である。「青と緑とは、ほかのどの色よりも、自然から人間性を剥奪するのだ」とニーチェが言うように、青は非人間的なもの、すなわち「聖なるもの」への通路となる。非人間的なものとは決して人間の外部にあるものではなく、むしろあらゆる内/外の間に蠢く微光を発する「大気」であり、すべてに浸透し合う「色」である。そのなかでひとは別の様態への変容を観想し、その澄んだまなざしで世界と共に生起する。「青」とは幽微な知覚のスタイルであって、単なる色の一種というわけではないのである。

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